reminiscence(追想)


冷えた空気の合間にいくつもの吐息が溶けていった。
雪道には多少慣れているものの、それでも走る経験はあまりなかったから、柔らかすぎる雪に足元をすくわれながら彼の
気配
を追う。
先刻まではわずかに残っていた残照も完全に消え落ちて、あたりは夜の闇に覆われていた。
そうして、暗く白い世界の先に、崩れ落ちるように座り込んでいる見知った背中を見つけた。

(この方の背中は、こんなに小さかったのだろうか)

知っていたはずだった。
追憶の中の彼の肩も身体もとても小さくて頼りないものだったということを。
頭を膝に載せたときの、あの僅かな重みを。抱きしめた腕の細さを。
強く握れば、壊れてしまいそうな手のひらの温もりを。
私は、知っていたはずだったのに――

 

先ほどまで居たクラウスとアンナも消え、ルドルフと二人きりになった部屋で、暖炉の薪の燃えかすが弾ける音だけがパチパ
チと聞こえる。世界には二人しかいないのだと錯覚してしまう程、とても静かだった。
ルドルフが持つカップを取り上げサイドテーブルへと置いた。まだ一口も口を付けられていないカップの中身が、衝撃でたぷ
たぷと波うつ。

「今日はもうおやすみになられないと…」

声を掛ける。しかし会話するつもりがないのか、視線をこちらに合わせるつもりすらないのか、微動だにしない。
ルドルフの様子が尋常ではないことは認識はしていたが、それがどういう事なのか本人に問いている時間は無い。
今は一刻も
早く彼を休ませるべきだと思った。
もう一度ルドルフに声をかけようとしたその時、
「…そうか…」
喉の奥から絞り出すように発せられた微かな一言。
「ルドルフ様」
動かないのではなく、動けない?
(…何かを、見ている?)
神経はただ一点へと集められているようだった。
ルドルフが見ている方向と同じ方へ視界を向けるが、暗い窓の横には何も無い。
ただ無機質な壁が存在しているだけ。
「もうお前は消えないのか」
何かを諦観したような、他人ごとのような、まるで感情のこもらないつぶやき。
初めてだった。
常に、前を、上だけを向いていたルドルフが。
その顔を両手で覆い、何かに打ちひしがれたように俯く様。
彼の身に何か計り知れない事が起こっているのだと、改めてそう確信する。
「ルドルフ様」
表情を隠すように被せられた手のひら。その腕に手を添えると、直ぐ様縋り付くように握り返される。

「…いやだ、いやだ―」

「こんなのはいやだ……」

まるで子どもでもあやすかのような感覚に囚われながら、落ち着かせるようにルドルフの背を撫でた。上質なコートの布地が
手に優しい。
背を撫でながら視線だけ正面に移す。
窓の外では、いつしか雪が降り始めていた。
雪質から見て、一晩降る性質の雪ではなさそうだが、カーテンを引かないといずれ部屋が冷えてしまうのは確実だろう。
彼が見ていた窓の隣。建物が建てられてまだ年数はそれほど過ぎていないのか、その壁には色褪せも、ひび割れもないように
見える。ただ、ランプの明かりが端まで届か無いためか、どこかジメッとした暗い空気を落としていた。
仄暗い壁の先に、彼はどんな虚構を見ていたのだろう。


(……そう言えば、昔…)
思い起こしたのは、今と同じように雪が降っていたあの日のこと。
決して弱みを見せない彼だったけど、過去にも一度だけ、何かを恐ろしいと告白された夜があった。
あの夜もこんな風にルドルフの背に腕を回したのを覚えている。
(私は、私が恐ろしい…)
ルドルフのもとに戻ったあの夜。
もう二度と、再会すら願ってはいけないのだと、そう思った彼と再会した日。

(いずれ、この日が来ることを予感されていたのだろうか……?)
あれはテオドール達と共に、ウィーンに戻ってきたばかりの頃だったか。
新聞で目にしたバイエルン王の死についての記事。その中に、自殺とも他殺とも取れるその死の原因は、彼のその一族にまつわる
狂気の血のせいだと、はやし立てるように書かれていたものがあった。

”ヴィッテルスバッハっていうのは そういう血の家なんだって”
”だからあそこのルードヴィッヒ様もいずれはそうなって お母様もそうなるかもって”

少女の、戯れのような予言が、まさか彼の身に振りかかることになるなんて。

布越しに触れ合う体温が温かった。
ふと彼の両頬を包み込み、上向かせるようにして視線を合わせた。
きつく射ぬかれるようだった苛烈な眼差しが、今はこんなにも不安定に不確かに、揺れている。
大丈夫です、私がいます――
そう言葉にしようとしてぐっと飲み込んだ。言えない。
(私は、彼の闇と共には在れなかったのだから)

(俺は逃げない、お前のように逃げたりしない)

今も変わらずルドルフの腹心である男の言葉を思い出す。
何も言えなかった。そして今も、返す言葉は見つからないままだ。


つづく!20110911